2012年5月31日木曜日

フィリピン 売ります 新しい車椅子

ほとんど使って無い、新品同様の車椅子あります。

アラバン・フェスティバルモールのローズ・パーマシーで、4800ペソ+で買ったものです。 コンパクト仕様で、足は悪いけど、しっかり自分で座位を保てる人向けの、軽快な車椅子です。

3000Pで使っていただける方、よろしくお願いします。

メール jjwinkle14344@yahoo.co.jp  まで。




フィリピン 生まれて初めて老眼鏡

最近、急速に本の文字が見にくくなった。 イヤダイヤダ。 これって、結構イライラする。 文庫本の文字が読めない、車の中で地図が見えない、競馬新聞の文字がわからない・・・・・・・。 


どんなんでもいいから、買ってきて! と嫁さんに言って買ってきてもらった。100ペソ。


老眼鏡なんて、確か100均で売ってたように思うので、とりあへず何でもいいかと思って掛けてみた。 よく見える(笑)。 


私の持論。 人間の体の部品、耐用年数50年論。 まだ数年あるが、徐々にあちこちガタが来るんだろうな。 目は既に来てしまった。 頭の毛は既に耐用年数を終ってる(笑)。 歯は今のところ頑強。 心臓は既にサイボーグ。 肩は全然大丈夫。 腰もOK。 なにも今のところOK(笑)。


各パーツの耐用年数は50年程度なのだが、人間の耐用年数は、日本では80年超の時代。 ここフィリピンでは、50年程度で終わりの人が多い。 これは、日頃の手入れの差。 それと、パーツの修理能力(医療)の差。 私の心臓だって、日本の病院で、保険使って、高度治療をしたもらったから、事無きを得ているだけ。 フィリピン庶民だったら、ハートアタックで死亡、40代半ば。 全く珍しくも何とも無い。


若くは無いのは自覚しているが、一層、気をつけていかないと。


自分の人生は、正直いつ終っても別にいいんだが(本音)、娘はまだ2歳。


まだまだ、一頑張りも二頑張りもしなければ。

2012年5月28日月曜日

フィリピン 汗を流して労働


昼から、スリッパーショップの模様替えをした。


新学期シーズンにあわせて、学校・仕事用の靴をコーナーにまとめて売り出すのが目的だったが、やりはじめると納得いくまで止まらないA型の私(笑)。 こうしよう、ああしようと言い出して、店員がノロノロやっているのがイライラして、自分でガンガン働いてしまった。


Tシャツがグッショリなるくらい汗かきました。でも、たまにはいいものです。一生懸命、屈んだり立ったりしながら労働していると、ストレスフリーです。 家で、料理しているより、よっぽどいいです(笑)。 愛子ちゃんも汗みどろになって、パパの邪魔をしておりました(笑)。


重装備の店とちがって、陳列物の機動性は十分。 ですから、当然のマネージメントとして、シーズンに合わせた商品陳列のやり変えは必須だと思います。 そういや、雨期・台風シーズンはスリッパーの売上が上昇する季節。 汚れちゃったり、傷んでしまったりするんですね、スリッパーが。 ここのところ、連日夕立のような雨がふってます。 今日は午前中でしたが。 乾季の終わりを感じます。 雨期、台風シーズン、そして、BERの月へ。 年後半は稼ぎ時なのかな。 稼げたらいいですが(汗)。


嫁さんも、早朝からバクラランへ仕入れに行って、午後は私と店舗の陳列作業に大汗、夕食後は店頭に立ってます。 深夜までの営業です。 頑張ってます。 仕事のあることの幸せをわかっているみたいで、店の仕事は嬉々としてやっております。 うんうん、いいことだ。


次なる商売の構想も出来つつあるんですが、全然前に進んでません(笑)。まあ、あせらず確実にやっていきます。 焦ってやると、ろくなことが無いのがフィリピン。 また軌道にのったらブログでも紹介させていただきます。 

2012年5月27日日曜日

フィリピン 海外出稼ぎ・OFW の闇

WORK ABROAD, SEX AND BAYAD


今日買ったフィリピンの大衆新聞の大見出しです。 単語直訳すると、海外出稼・セックスで旅費 みたいなかんじです。タガログ語なので、嫁さんに読んでもらって教えてもらいましたが、ダバオにいる韓国人の男:韓国へのフィリピン人労働者斡旋者が、出稼ぎに必要なお金の払えないフィリピン人女性に、体で払うように勧めていたというものでした。


この記事をきっかけに、今日家に来ていたフィリピン人の知り合いと、OFWの実態の話しになりました。その人(女性)は、自らもシンガポールへメイドとして出稼ぎにいった経験を持ち、親戚にも友達にも、マレーシア、ホンコンなどでメイドをしていた知り合いが多いそうです。


OFWとは、オバーシーズ・フィリピノ・ワーカー。 国内に仕事が無いから他国へ働きにでるフィリピン人のことです。なぜ真ん中が F なのかわかりませんが。 PHILIPPINO だったらPですが。


このメイドとしての海外出稼ぎ労働、かなりの確立で、雇主によるセックスの強要があるみたいです。そのことをエキストラ・ジョブ等と言って、出稼ぎ労働者の間では、さも仕方の無いことのように暗黙の了解になっているみたいです。雇い主による強要なのか、合意のものか、あるいはメイドのほうから売り込んだのか、それは知りません。 でも普通に常識的に考えたら、雇主による強要の線が濃厚でしょう。


私は訪ねました。メイドの出稼ぎを希望するフィリピーナは、皆、その実態をわかった上で応募しているのかと。 答えはイエスでした。 覚悟の上の、海外メイド出稼ぎだそうです


シンガポール、マレーシア、ホンコンなどが多いそうです。


ある人の話しを聞いただけですから、誇張もあるでしょうが、セックスサービス付きメイドが、かなりの確立で存在するのは事実のようです。


以前、大量のエンターテイナーと称するGROが日本のフィリピンパブで働いていた時代がありましたが、さすがは日本、売春の強要などは無いに等しかったようですし、客としてあちこちで遊んだ私の実感としても、日本のフィリピンパブは健全だったと思います。恋に落ちる個人行動は、色々あると思いますが。


まあ、別に驚きもしませんでしたけどね、さもありなん と思っただけです。



ここで、嫁さんの一言、

GUSTO MO BA !?  ( DO YOU WANT IT !?)

はははは。


で、今までうちに来たメイドや介護士を思い出してみました。嫁さんと2人で大笑い。
デブばっかり、超おばさんばっかり、オカマあり、、、、、、
この間、23歳の女性が来たと思ったら、まるで子供(笑)。

我が家が、健全なのはあたりまえです(笑)。

はいはい、違います!
どんな美人のメイドが来ようと我が家は健全です!
はい、すいません!





2012年5月26日土曜日

フィリピン 介護生活は成功だったのか?

母が死んで1週間が経ちました。 初七日は昨日なのかな、今日なのかな。完全に宗教色を排して行ったフィリピンでの母の見送りでしたので、日本で納骨の時に、ボンさん読んで法要をとりおこなうことになりました。フィリピンにいる私は出来ませんので、兄弟が万時段取りしてくれることになってます。


母が急にいなくなって、入浴などの毎日の大騒ぎイベントが必要なくなり、何とも静かな、喪失感が漂っています。これで、愛子ちゃんの騒ぎ声が無かったら、本当に寂しさもひとしおのことでしょう。


突然の終わりを迎えた、フィリピンでの母の介護生活。 振り返っても仕方のないことですが、私の発案に親父が賛同して始まった異国での介護生活。 どうだったんでしょうね。 確実に言えるのは、母の寿命というか運命は、日本にいてもフィリピンにいても、ここまでだったんだろうなとは思います。胆石が発端の肝臓障害ですから、日本だとかフィリピンだとか関係ないですものね。


そんなことより、母にとって良かったのかどうか。。。。。


親父や私、そして日本にいる私の兄弟にとって良かったのは間違いありません。自分が自ら手を下す介護からは開放されて、少ない少ない年金で人を雇って、世話してもらって生活が送れたのですから。しかし、母自身は、そんなことを有難いと思うより、日本への郷愁が強くなってしまって、幸せを感じることなんて無かったんじゃないかと思ってします。 かと言って、日本にそのまま居れば、幸せだったかというと、フィリピン以上に、不幸だったと思います。


結局、、、、6年前か7年前か忘れたが、母が脳卒中で倒れて半身麻痺及び若干の知的障害を負ってしまったときに、母が幸せになる道は無くなってしまったのだと思う。 おそらく、あの世にいる母の記憶に、脳卒中以降の辛い記憶は無いのではないかと思います。


絶望的な状況の中で、せめてもの、ベストの選択をしたと思いたい。 フィリピンに来なかったら、もっと悲惨な状況だったと思う。


成功か、失敗か、、、なんて今更どうでもいいことだが、


これでよかったんだと、、そう思っておこう。

2012年5月25日金曜日

フィリピン イライラ  いつなんだ!!!

久しぶりのイライラシリーズ。 


フィリピン人と接していると感じること。 
彼らには、 『When』(英語) 、 『いつ』(日本語) の概念が、かなりのレベルで欠落していると思います。 これが、私の嫁さんも含めてですから始末が悪い。




例えば、こんな会話。


私  『今日来る約束の彼は、いつ来るの?』 
嫁  『いま田舎にいるって。』
私  『あのね、どこにいるかはきいてないの。いつくるの?』
嫁  『田舎から帰ってきたら。』
私  『だから、それはいつ?』   イライラ イライラ
嫁  『知らない』
私  『さっき電話で話したんでしょ、いつ帰るかきいてないの?』
嫁  『まだ子供の学校の用事あるって。』
私  『だからね、いつ帰るか、聞いたの?聞いてないの?』 イライラ ブチッ


彼が、どこにいようが、何の用事があろうが、私は興味ないし、聞いてないの。 ただ一言、いつなのか、日付と時間を言ってくれたらいいのに、会話がかみ合わない。


嫁さんの名誉のために、これは嫁さんばかりではない、確実にフィリピン人全般に言える。話しの中に、あるいは段取りの中に、『When』(英語) 、 『いつ』(日本語) の概念が入らないことが多い。


何時か?、何てどうでもいいのか。 段取り、調整で一番大事なポイントだと思うのは、私、日本人だけか。





私   『おい、貸した金の期限過ぎたぞ、いつ返す?』
友人  『娘の学校のお金を払ったばかりなんです・・・・・』
私   『何の話しや、お前の娘の学校はどうでもいい、いつ返すの?』 イラ
友人  『学校のお金高いんです・・・・』
私   『学校の話しは私には関係ない! いつ返せるの?』 イライラ
友人  『お金があったら、すぐ返します・・・・』
私   『だから!それはいつだ!』  ブチッ ブチッ
友人  『すぐです、お金があったらすぐ返しに行きます』
私   『(スゴイ・・文字通り話しにならん・・・・・) 』



これは、確信犯だと思えますが、そうでもないんです。一生懸命、答えているのです。いつ?という問いかけに、日時を答えるという頭脳回路は持ち合わせていないようです。




(2年前、母の入院中)



私  『明日、感染症の専門の先生が来るのですが、いつ来られますか?』
受付 『明日来ますよ。』
私  『明日の、いつですか?』
受付 『明日スケジュール入ってますから。』
私  『明日の、何時頃ですか?』
受付 『そこまでは、わかりません。』 (うんざりした顔で言いやがった)
私  『せめて、朝なのか昼なのか午後なのか夕方なのか・・・・・』
受付 『明日来ますから、心配しないで。』


彼らの、 『いつ』 調整最小単位は、日のようです。その日の何時という調整は、彼らの許容範囲を超えるくらい精密すぎることのようです(笑)。


患者は、いつ来るかわからない先生を、朝からずっと待っているらしいです。私には出来ませんでした。



こっちにも段取りというのもがあるの!


『だから、それは いつだ!!!!!』









2012年5月23日水曜日

フィリピン 死亡後の流れ

病院にて病死、フィリピンで火葬、日本へ持ち帰り・・・という一般的なケース(もちろん死因に何の事件性も無い)ですので、諸手続きの流れを書いてみたいと思います。



●看取り、死亡確認

病院発行の死亡証明書(Certificate of Death)受け取り。主治医、病院発行者、私(遺族)のサインあり

●病院にて会計を済ませる。済まないと病院から出られません。

●遺体は病室を出て、安置室(フリーザー)で待機、迎えを待つ。



※病院、ドクターの仕事はここまでですから、次は葬儀屋の手配です。



●メモリアルパーク(火葬場併設)の事務所に行って交渉。私がお願いしたメモリアルパークでは、全て込み込みのパッケージプライスを提示されました。家族の意向によっては、必要なもの必要でないものがあると思いますので要確認です。しかし、大概、時間はないし、気は動転してるし、値段交渉などしている余裕はありません。ですから、不謹慎でも、生前に急な事態が予測されるなら、万一に備えて、先行して相談しておくことはいいかもしれません。




(今回葬儀屋のしてくれたこと) 130000ペソのパッケージ

・遺体の搬送   病院→メモリアルパーク  救急車型ライトバン
・死後処理    ホルマリン・死化粧・衣装着替え・棺桶への安置
・棺桶、骨壷は全てパッケージに含まれます
・遺体の搬送   メモリアルパーク→自宅   救急車型ライトバン
・自宅内に安置  白カーテンや、照明、カーペット、記帳台など全て設置
・遺体の搬送   自宅→メモリアルパーク  霊柩車
           いわゆる出棺です、母の好きだった音楽を鳴らしながらゆっくり進みます
・火葬       待合室で最後の別れ、焼却炉に入るまで見送りました
           火葬は、2時間程度で完了。遺骨拾いはありません。
           完全に遺灰になって出てきます。
・骨壷       遺灰を骨壷へ、メモリアルパークの綺麗な袋で包んでくれます。

(葬儀屋で受け取る書類)
火葬証明書(Certificate of Cremation)
●市役所のスタンプのある公式死亡証明書(Certificate of Death)

 ※市役所への届出は葬儀屋がやってくれましたが、役所の処理が通常なら3-4日要するらしいです。今回は帰国が翌日でしたから、特別にプッシュして、自ら役所に出向いてゲットしました。スケジュール要確認です。


(利用した葬儀屋)

Loyola Memorial Chapels & Cremation    (LMCCI  Sucat)

    sucat rd, Brgy BF Sucat, Paranaque City   ℡826-7014

※高いか安いかはわかりませんが、
  日本人の納得のいく仕事(迅速さ、マナー、清潔さ等)をしてくれました。




※葬儀屋の仕事はここまで、次は帰国の段取りです。



●死亡証明書の翻訳 日本の役所で要りますが、フィリピン現地では不要でした



(日本大使館にて帰国の手続き)

母の遺骨・死亡証明書(市役所受付済み)・火葬証明書・故人のパスポート
            以上が必要書類でした。

●中身の検査・壷の封印

●『遺骨証明書』 の受け取り(帰国時の最重要書類)
 壷の中身は遺骨だけであるという日本大使館のお墨付きです。
 これがないと空港で荷物検査で空けられて、かき回され、大騒ぎになって、多分帰国出来ないでしょう。

●故人のパスポートの抹消処理

●大使館の受付が平日の15時半までですの要注意。私は遅れそうだったので16時半まで待って頂きました。



(いざ帰国の途へ NAIAへ)

骨壷を預ける人いませんから、機内持ち込み手荷物です。日本大使館発行の 『遺骨証明書』は、何回も提示を求められます。 空港ビルに入るとき、チェックインカウンター、イミグレーション、搭乗ゲート前のボディチェック。



無事、機内へ。




2012年5月22日火曜日

フィリピン おかん日本へ京都へ

姉に抱かれて、母は今 飛行機の中。

きっと久しぶりの日本への到着を待ちわびているのでしょう。

日本大使館でもらった遺骨証明、何回も空港で提示を求められました。

仕方ないですよね、なんせ白い粉なんですから。。。。

母はぶつぶつ文句言ってるかも。

『何か文句あんのん??』

でも無事に遺骨を持った姉を見送って、ほっとした。

虚脱感、空虚感、寂しさ、疲れ。。。。。。

午後は眠ってしまいました。


我がフィリピン生活、第二章が明日から幕開けです。

ぼんやりしている暇はありません。


母のために借りたこの家も、10月で契約満了。

こじんまりした新しい家を探し出してます。


可哀想なのは、我が家で介護の仕事をしてくれていたスタッフ。

失業です。

これも仕方ないですよね。

でも、皆最後まで、本当によくやってくれました。


私も失業? ははは。

ここからが腕の見せ所。 やります。


2012年5月21日月曜日

フィリピン 母は帰国の途へ

今日は、近くのメモリアルパークで母の火葬。

市役所で死亡証明書の受付をして、パサイの日本大使館へ。

そこで、骨壷に封印をしていただいて、遺骨である証明書を発行してもらった。

明日、姉に抱かれて、母は帰国。

一昨日の朝、母が逝ってから、様々なことが実に要領よく運んだ。

何をやってもスムーズに行かないフィリピンでは奇跡的でした。

私の頭は手順の段取りでフル回転、今、どっと疲れました。

葬儀屋はスーカットロードにある、Loyola Memorial Park.

病院からの搬送、死後処理、化粧、家への搬送、棺おけ、家のセッティング、霊柩車による迎え、火葬、待合室使用、骨壷、役所への届出、火葬証明書。。。。。

全てお任せパッケージで13万ペソでした。

高いか安いかは知りませんが、十分満足のいく仕事はしてくれました。

キリスト教色は一切排除して、行いました。

坊さんの出番は、日本に帰って納骨の時に。

疲れました、正直。

色々手伝ってくれた方々、本当にありがとうございました。

さようなら、おかん。

そして、わが人生は続いていく。

まだまだ、まだまだ、これからだ。

さて、仕切り直し。

今日は寝る、明日から頑張って行こう!

2012年5月20日日曜日

フィリピン 母は明日旅立ちます

色々な人が来てくれて、母がフィリピンの自宅ですごす最後の夜です。

明日は、近くのメモリアルパークで火葬です。

病院で逝ってから、色々の段取りはスムーズに進みました。

ドタバタしている時はそうでもないのですが、少し落ち着くと寂しさがこみあげます。

今もまだ、、、、母が 『あーしんど』 といって起きそうな気が。

ほんとに、安らかな顔で寝ています。

くも膜下出血で倒れて以降、苦しい表情の多かった母。

今は10歳も若返って、久しぶりに見る母本来の顔です。

天国に行ったら、半身麻痺なんてなくピンピンしているんでしょうね、おかん。

寂しいよ。 ほんとに。

でもな、、、、、、よかったな おかん。 楽になれて。

最後の瞬間、母の呼吸が止まりそうになったとき、

耳元で大きな声で言った私の言葉、聞こえたかな。。。。。

『おかん! もうええで! ゆっくり休み!』

多分聞こえたんでしょう、今の寝顔を見ると。

おかん、ちょっと疲れたわ。

今日は、涙も一杯でた。

明日はもっと一杯でるかな。

おかんに言われるな、

『もうええて! 男が泣かんとき!』

わかったよ、人前で泣かんように頑張るわ、おかん。。。。。

フィリピン おかん やっと楽になれた

本日、朝、9時37分、母が永眠しました。

奇跡は再び起こらず、昨日からまた昏睡状態。

朝、日本から駆けつけた姉と私が病室に到着するのを待っていたように、

私たちの見守る中、呼吸を止めました。

くも膜下出血で倒れてからというもの、しんどい人生だった、おかん。

今、綺麗に化粧して、寝ている母は安らかそのもの。

悲しみの中でも、私はこう言わずにはいられませんでした。

『おかあちゃん、楽になってよかったな・・・・・ゆっくり寝なさいよ・・・・』

エイシアンホスピタルという素晴らしい病院で、ほんとによくしてもらいました。

家族も最善は尽くせたと思っております。

ありがとうございました。

母が最後に口にしたものは、おととい私が舐めさせたソフトクリーム。

一昨日はまだかすかに意識があった。

かすむ意識の中、ソフトクリームを一生懸命舐めた母。

食べ物は禁止だったので、ほんの少しだけ、舐めただけ。

どうせならもっと食べればよかったな、おかん。

最後の最後まで、甘いもの好き。

母らしい最期でした。

今までありがとう、そしてご苦労様でした、おかん。



2012年5月16日水曜日

フィリピン これは奇跡か・・・・・・・

昨日、突然、母の意識が戻った。

絶望感に打ちひしがれてICU内にいる時、突然、母がしゃべった!

『もうええ・・・・・しんどい・・・・・・・』

静寂なICU内に響き渡る、私と親父の歓喜の声。

その後、意志疎通が出来るまでになった。

私 『何か欲しいものあるか?』  母 『甘いもん・・・・・・』

私 『愛子覚えてるか?』    母 『当たり前・・・・』

私 『お父さんと一緒にいたいか(笑)?』  母 『ぜんぜん!・・・・・』

(涙・・・涙・・・・)

肝性脳症による重度昏睡からに生還・・・・・・・・・・

ドクターも、こんなケースははじめてみたと。

経験豊富なドクターが、びっくりして喜んでウロウロ。

昨日は、葬式や火葬の話しまでしていたのに・・・・・・

これは奇跡か。

恐るべし母の生命力・・・・・しぶとい(笑)


またケーキとアイスコーヒーが食べられる日まで・・・・

頑張れ、おかん!

2012年5月14日月曜日

フィリピン 母が逝きそうだ・・・・・

急激な容体悪化・・・・

今、アラバンのエイシアンホスピタルのICUにいる。

肝臓悪化、腹水が溜まり、毒が脳に回り、昏睡状態・・・

もう帰ってはくるまい・・・・・・・・

覚悟も段取りも全く出来ないほど、急・・・・・

おかん、いつでもそうだ、何か起こすと極めて急に。

ICUか、家に帰るか、、、というくらい絶望的な症状・・・・

最後のあがきにICUを選択したまで。

神様、、、、仏さんでも、キリストさんでも、誰でもいい。

今回、1回だけ、助けてやってはもらえまいか。

2012年5月12日土曜日

フィリピン スモールビジネス関心高い?

昨日もそうですが、フィリピンの商売関係の話しをするとアクセスがグッと増えますね。 まあ、私がする話しは、生業レベルのスモールビジネスですが。 でも、関心が高いようなので、参考までにもう一つ。

フィリピン庶民層向けのアパートメントです。これが、なかなか投資効率が良いように思う。実は、以前に詳細な建築見積をとったことがある。建物自体は、1DKが4部屋。 真ん中に階段があって、1階に2部屋、2階に2部屋。 土地面積は60㎡。 私の性格上、ええ加減な計算は許さないので、セメントからブロック、ジャリ、木材、ワイヤー、釘、その他ドアノブやヒンジにいたるまで、詳細な積み上げ計算をしました。

想定家賃は、1部屋月額5000P。4部屋で20000Pです。 建設用土地も、ある場所を想定して、取れる家賃の相場にしました。

さて見積りですが、

建設資材     23万ペソ
労務費    18万ペソ
手続き費用      4万ペソ
その他予備  2万ペソ     合計 47万ペソ

(端数省略、大雑把)


大雑把な書き方ですが、バックにある計算は委細詳細です。 労務費にはミリエンダまでちゃんと算入してます(笑)。

ちなみに想定した土地の取得費用は、これも概算で26万ペソ。60㎡ですから、1㎡あたり4333ペソです。ここは決して自分では住めない場所です(笑)。すぐに洪水で、膝まで水が来る、ははは。 一応、良心的に床を一段あげるためのセメント見積りになってます。

土地26万p、建設47万p 合計73万p。
月2万pの家賃収入で、約36ヶ月での回収目論見になります。

日本で2000万のマンションを、月10万で貸したら、単純計算で200ヶ月ですよね。36ヶ月は早くないですか? 

まあ、素人の単純乱暴計算ですが、大体の様子はつかめます。
 
当然、建設規模はこの倍でも3倍でも、あるいは半分でも可能です。規模が変わったら、手続き費用だけ据え置きで、その他はほぼ比例で計算したらいいと思います。

人件費がバカ安いフィリピン、庶民向け住宅の建築資材の安さ、これが投資回収が早くなる原因だと思いますね。 庶民の生活が苦しい裏返しが、持てる者の楽チン生活を支える構図です。

当たり前ですが!

絶対に、空室にならない場所の選定が第一です。結果、知らない土地では出来ないと思います。自分の土地勘のある場所でないと。

それと、家賃の滞納リスクがありますので、保証金を取っておくことは絶対必要。フィリピンでは、借り手の権利など全く無いような、貸主側の強権的契約がまかり通りますから、大丈夫だとは思いす。

建屋のメンテナンス費用なども、積み立てておいたほうがいいと思いますので、更に固めの目論見が必要でしょうが、そんなに割りに合わない商売ではないと思いましたが、如何でしょう?

台風でひっくり返ったら????

さあ、どうするかな、はははは。

ひっくり返らないほうにかけても、いいんじゃないですか(笑)。

2012年5月11日金曜日

フィリピン こんな商売はどうですか?

先のタギッグ市の記事を書いていて、思い出した話しがあるので書いてみます。


商売の話しです。話しの出所は、私のフィリピン人の友人。大学出の男で、私の知り合いの中では、まあまあの奴です(どんな表現や すいません)。


商売のネタは、ダンプトラックを買って、パンパンガ等の田舎の山から、砂利をメトロマニラの建築現場に運ぶというもの。商売のキモは、運送代を得るのではなく、田舎で砂利を買って、メトロマニラの建設現場で売るという売買の形の商売。 まあ、もちろん付加価値は運送労務になるわけですが。


とにかく、ここ数年のメトロマニラの砂利需要は天井知らずらしいです。いくらでも需要がある。それは、納得いきますよね。 これだけの建設や開発があちこちで進行してたら、さもありなんと思います。ですから、田舎から砂利を運べば運ぶほど、売上げが上がるということ。


この私の友人は実際に雇われて、ダンプトラックの助手をやっていて、田舎の砂利積載現場から、メトロマニラの砂利降ろし現場まで全部見てきて知っているとのこと。数十台のダンプトラックを所有するオーナーだったらしく、まるでコンボイのように、数十台のダンプが田舎の山から、マニラ目指して疾走する様は、壮観だったらしいです。 なんか格好いいですね(笑)。


面白かったのは砂利の値段! 田舎の山を切り崩して、砂利をトラックに売る現場があるらしいのです。そこには、エージェントが一杯いて、やって来る空のトラックを山の切り崩し現場に斡旋する。 正確な金額は忘れましたが、大型のダンプに一杯一杯積載して、お値段1000ペソ。 要はただみたいな金額です。 それがマニラにつくと、ゼロが一つ増える。10000ペソ。 一往復の粗利9000ペソ。 ガソリン代一往復3000ペソ。 ドライバー給料1トリップ500ペソ。 一往復の純利益は、、、、5500ペソですな。 これを一日2往復する。 ということは、ダンプ1台あたり、1日11000ペソの利益。 月33万ペソ。 ダンプ3台で月99万ペソ。

(金額は全て、大雑把)


まあ、こんな商売らしいです。スービックか何処かで、中古のダンプ買って、参入しないかという話しでした。中古のダンプっていくら位のものか、全く想像つきませんが、月33万ペソ叩き出してくれたら、1年もあれば十分回収じゃないですかね。 わかりませんが。


まあ、市中のタクシー・ジープ・トライシクル、全部そうですが、難敵は車のメンテナンス費用。ダンプとなると、これもバカにならないでしょうから、相当固く見ておく必要はありそうなビジネスですが。

それと、この商売の難題は、ダンプのパーキングスペース。自家用車みたいに、そのへんに停めておくなんてこと出来ませんからね。パーキングロットの取得あるいは、リースも必要だと思います。


ご興味のある方いらっしゃたら、キーパーソン紹介しますよ。砂利の売り買い、車両の整備や、登録保険関係まで全てできる知識をもった男です。英語話します。


先ずは田舎の現場と、マニラの荷卸し現場の視察から。 実際にダンプに乗せてもらって、体験するのが一番でしょうね。


フィリピン タギッグ市の新興開発地域

ある人に案内されて、タギッグ市の振興開発地の土地を見てきた。

私が知らなかっただけだとは思うが、メトロマニラ内にこれほどの広大な空き地が残されているとは。 

大雑把な場所は、タギッグ市のラグナベイ寄りのエリア。SLEXからC5に乗り換えて、スイスイ走ったら、パラニャケの我が家から20分くらいで着いた。 C5沿いの開発ぶりは知っていたが、C5の東側に旧来のダウンタウンを抜けると突然、地平線の見えるような広大な土地が広がる。


C5からの開発地域の入り口は、かの有名なCamellaさんが、いち早く大規模なビレッジとコンドミニアム群を建設中。さらにその東側は、広大な空き地が残されていて、現在徐々に開発が進んでいるのが見える。 ほとんどが草原のような状態なのだが、所々で、区画整理がなされ、道がつくられ、家が建設されている。10年も経ったら結構な街になるんだろうなというのは、感覚でわかる。C5からはひっきりなしに、砂利やセメントのトラックが進入していく。


その広大なエリアの中にある、小集落の一角の土地を、投資のために買わないかというのが、今日案内してくれた人の主旨。草ぼうぼう、数十世帯の集落なのだが、そこは旧来の個人オーナーがまだ持っている土地らしい。 話しによると、この一体は、大手のデベロパーや、大資本が巨大な単位で土地を買占めているらしい。 私が見た現場は、まさに田舎の平原の中の、小集落という感じで、ミクロで見ると何の魅力も無い土地。 だが、マクロで見ると、非常にいいポジションに思えた。10年単位の、先の話しでですよ。C6という幹線道路が、今から出来るのか出来ているのか知らないが、とにかく、開発されて街が出来上がっていくのは確実だと思った。


今日の話しの要旨。1200㎡(端数省略)の土地(現状は草原もしくは粗末な住居)が2ミリオン。1㎡あたり1666ペソですな。 それを買って、50㎡単位に区分けして売り抜けるということ。50㎡は220千ペソ。1㎡あたり4400ペソになります。


笑いながら聞いていたのですが、このあたりはそんなことばっかりやって、儲けている奴が多いだろうなとは実感します。一昔は田んぼだったらしいこのエリア。ラグナベイが近いので、平坦なのだろうと思いますが、地盤の強さや、洪水の問題など、全く未知数。 案内人は、50㎡単位なら、いくらでもバイヤーはいると強弁する。 私が見た、この1200㎡の土地のオーナー宅は、非常に粗末な下層庶民の家。多分、このオーナーも、二束三文だった土地が、開発の波によってミリオン単位で売れるということで、売り抜けを狙っているのでしょう。


嫌ですねこういうのは。もう売り抜けられたジョーカーなのか、今からいくらでも売り抜けられるエースなのか。バブル時代を思い起こさせる話しでした。


でも、開発が凄いのは確かです。


お金持ちの方で、投機的な投資(変な日本語)に興味のある方が、いらっしゃったら、紹介ならびにご案内できますよ。


私?


2百万ペソくらい、どうなってもいいや! と言える位の身分でしたら、買ってみますね。 でも、そんな身分じゃございません(涙)。

2012年5月4日金曜日

フィリピン 少し暑さが和らいだ

今日は雨が降った。ここ数日は、曇り空という状態が出てきて、幾分暑さが和らいだ。 太陽光線が雲でさえぎられているとほっとします。まあ、もう5月ですから、少しずつ雨季に向かっているのでしょうか。蒸し暑いのもまた嫌ですけどね。


今年のここマニラの暑さはやっぱり異常みたいです。フィリピン人に聞いてそういうのですから間違いありません。 太陽光線は、殺人光線です。 ほんと直射日光を浴びると、皮膚が暑いというより、痛いという表現がピッタリです。日本とは太陽光線の角度が違います。 太陽が近い感じです。


さすがに、よくエアコンを回した。 じじばばの部屋と、愛子ちゃんの部屋と。電気代の請求書が恐い(汗)。私も、一日3回水のシャワーを浴びるのが習慣化してしまった。水道代の請求書も見たくない(笑)。



1月  フィリピン
2月  フィリピン
3月  フィリピン → 日本
4月  日本
5月  日本
6月  日本 → フィリピン
7月  フィリピン
8月  フィリピン
9月  フィリピン → 日本
10月 日本
11月 日本 → フィリピン
12月 フィリピン



こういう2重生活が出来たら、ベストかな? 

6月・7月 ですかね、日本フィリピンともに今一つなのは。じめじめ蒸し暑い梅雨(雨季)です。


こうしてみると、日本にいるのは、春と秋。フィリピン以上に苦しい日本の夏と、寒い冬を避けられるわけですね。


優雅な老後を過ごせる方には、超おすすめの2重生活です。


私? ここ(フィリピン)で結構です(笑)。 もう慣れたし、寒い冬は関節によく無いし。

2012年5月3日木曜日

フィリピン 大穴が出る競馬

昨日のサンタアナ競馬場WTA(ウイナーテイクオール)の払い戻し金は280万ペソ。的中が1チケットだけで、主催者のテラ銭を控除した額を、たった一人の何処かのおっさんが総取りという結果でした。


WTAとは、日本の中央競馬風に言うとWIN7。 設定された連続7つのレースの勝ち馬を全て当てるというものです。レース横断の7連単です。3連単でも当たらないのに(汗)、当たるわけないと思いますが、ここの競馬は出走頭数が少ないので、少なくともロトよりは十分可能性がある様な気がしてしまいます。 あくまで気のせいですが。


注目すべきは払い戻し金。今回の280万ペソというのは、日本円で560万円。 チケットの購入金額はたったの2ペソ(日本円で4円)。 倍率に直すと、、、、ええええっと、、、140万倍ですな。 もし日本のように100円のチケットだったら、その140万倍というと、、、ええええっと、、、1億4000万馬券になりますな。


あくまで倍率だけの単純換算ですが、日本で1000万馬券というのは聞いたことも見たこともありますが、さすがに1億円馬券というのは聞いたことがない。


日本人の競馬好きに比べて、まだまだマイナー競技ですから、掛けられる金額そのものが極小なのですが、庶民のおじさん方にとっては、十分夢を見られる競馬です。それも、小さな小さな掛け金で。的中者無し、、なんてのも頻発して、その場合は翌日にキャリーオーバーされて配当に上乗せされます。


1チケット2ペソだったらね、、、、毎日10チケット買って、20ペソ(40円)。。。コレくらいの娯楽の出費許可は嫁さんから頂いております(笑)。


今回みたいな、ミリオン馬券は無理にしても、2ペソ(4円)が、10万20万になる快感を一回味わってみたいものです。無理?無理でしょうな。


いいんです。小額のどうでもいい金額で、夢みながら馬を応援する。競馬の基本です。ギャンブルの基本です。 勝とうと思うならしないことです。 遊ぼうと思うなら、ギャンブルは楽しいものですよ。

2012年5月2日水曜日

フィリピン 子育ってこんなに大変?

最近感じることですが、2歳になったばかりの愛娘の面倒を見るのが、結構大変なんです。元気すぎて、うれしい悲鳴なのですが、子育ってこんなに手間がかかったかなあ・・・と思うのです。


日本の標準的な家庭だったら、マンションの一室で、奥さん1人で、例えば3歳と1歳の子供の面倒を見ながら、家事をこなす。 なんて風景は一般的ですよね。 育児ノイローゼとか、そりゃ大変な仕事であることは確かなのですが、1人で出来てしまってる仕事でもあります。


今、想像するに、愛子ちゃんが2人いたら、完全にギブアップですわ(笑)。それくらい、手間が掛かっている気がする。何でなんだろうと考えると、やっぱり、日本とフィリピンの環境の違いがあると思います。


ここでは、少し裕福な家庭や、外国人の家庭は、メイドとともに、ヤヤを雇うのは珍しくありません。悪い盛りのガキ2人を抱えている向かいの中国人の家庭なんか、ヤヤを2人も3人も雇っているようです。それくらい、子供に手がかかるのです。


マンションの子供部屋で、玩具を広げて、子供が大人しく遊んでいる・・・・・・・・なんて光景は一切ありません。 


歩き回る走り回る、散らかして回る、壊して回る、ほっておいたら勝手に外に出る、それも裸足で(笑)。 片時としてじっとしていません。 そして、常に誰かに甘えながら遊びます。1人で遊べません。やんちゃ盛りは危ない盛り。ひと時として目を離せないのですよ。


うちは、フィリピンにありがちな要塞のような家と違って、どちらかというと開けっ広げな構造の家。外と中の区別はもちろんありますが、日本の家ほど厳格じゃない。そして、母の介護をするスタッフが2名常駐。 パパもママもいる。 子供がよく遊びに来るし、とにかく、開放的な環境で、愛子はやんちゃぶりと甘えん坊ぶりに拍車をかけております(笑)。


日本の都会の子供とは、やっぱり大きく違った環境で育っているのだと実感します。 良いか悪いかと聞かれたら、100%子供にはいい環境だと思いますよ。


もともと私は、子供がテレビゲームしてたり、携帯いじってたりすると、絶望感をおぼえるタイプの人間。子供は外で遊んでなんぼ。悪さをしてなんぼ。


うちも、嫁さんが仕事で外出気味なので、育児の中心はパパ(私)。 その分、愛子は、はっきり言ってママ以上にパパが好きです。 愛子を溺愛している私はうれしいのですが、大変でござりまする。


今、愛子ちゃんはスヤスヤ。


こんな文章を書けるのは、プリンセスがお休みの間だけです(笑)。

フィリピン どうしようもない

相変わらず、母に手を出すことが止まらない。

もうずっと、あきらめて無視してきたのだが、さすがに昨日は一言言った。

『そんなことして何のメリットがある!? 何故辞められない!?』

そしたら、

『ほっといてくれ! どうでもええわ!』

更に

『お前ええ加減にせいよ! 何でお前に説教されなあかんねん!』

だとさ。

もうあかん。

どうしようもない。

2012年5月1日火曜日

フィリピン 幸せになりたい


人生四十数年、振り返るには早いが、十分やってきたと思う。 超山あり谷あり。 色んな経験もした。 人を騙したことは無いが、騙されたことはある。それも一度ならず。人間不信に陥って、孤独を愛する人になったこともある。平凡なサラリーマン稼業も十分やった。 その後、背広の中が金であふれかえったこともあった。 都心のハイクラスマンションに一人で住んだ。 金はあったが、幸せは何処にもなかった。 2度結婚した。1度目は8年で破局を迎えた。 ひとえに私が我侭だったためと今は思う。幼稚園を出たばかりの息子と、永遠の別れになってしまった。 だが、心の傷は、直ぐに癒えた。商売に没頭した。金の威力が、心の傷が癒えるのを早めてくれたのは事実だった。 しかし、幸せにはなれなかった。楽しかったのだけど、幸せではなかった。

それが今、色んな巡り会わせで、フィリピンにいる。

世界が全く変わった。でも、それを何の驚きも無く受入れて、今、ここで当然のように生活している自分がいる。結構、図太い人間だと思う、自分で。 変わっているとも思う、自分で。 今は幸せか? そうでもないな。 金は無い。 でも死んでないし、これからも死なないだろう。 金は死なない程度にちょっとプラスでいい。 格好つけていってるんじゃない。 それなりの経験をした私が言うのだから嘘ではない。 金はそこそこ、少し足らないくらいが丁度いい。 それでいいと思いながら、今、自分が幸せだと言い切れない。

何故か・・・・・・・・・・

嫁さんと愛娘。 三人で川になって寝る幸せは何物にも変え難い。前は、金はあるが孤独。 今は、金は無いが愛する者が共にいる。 今、幸せなはずだ。 でも、心底そう思えない。

何でなんだろう。

ひょっとすると、死ぬまで幸せになれないのか。 自分はそういう性分の人間なのかと思ってしまう。

そんなことをウダウダ言ってる余裕も暇もないのが、普通の人生なのかもしれない。ということは、こんなアホなことをウダウダ言っている自分は幸せなのか。

成功とは、成功を目指して努力する過程である。

なんて言葉を昔聞いたことがあります。 成功とは過程だと。 結果ではなく。 何かしんどい人生ですね。 常に奮闘していなければならなくて、奮闘しているうちに人生が終ってしまう。 決してそこにゴールは無い。商売人はそうかもしれませんね。1000万稼いだら、次は2000万、次は5000万、1億、2億、10億、、、、、常に足らないのです(笑)。常に足らないということは、常に不満足なんです、常に不安なんですね。 いつまでたっても幸せは来ない。 幸せを追い求めてることが、幸せか? そうは思えんぞ。 充実感は確かにあるだろうが、その後の虚無感をぬぐいさることは出来まい。

思いおこせば、常に明日のために今日を生きてきた。明日というのは比喩ですよ。言い換えると、将来のために今を生きてきた。 その生き方が心底染み付いている。 どうしても、明日のことを考えない生き方はできない。もしかしたら、これが幸せになれない元凶の精神状態なのかもしれない。 そしてこの心の持ちようは、私自らがトレーニングして体得した精神だ。 今、全く違う環境で、生きてみて、その精神構造は幸せの阻害要因になっている気がしてきた。

今を生きたい。今の幸せを心から感じたい。幸せなはずなんです。

でも出来ない。嫌になってくる、ほんま。



文章構想も何も無いまま、脳からの信号をそのまま文字にしました。気が狂ったわけではありません(笑)。乱文失礼しました。