2010年9月19日日曜日

そもそも何故フィリピンにやって来たのか(介護生活の限界)

  もう5年前になります。70歳を目前に快活で健康そのものに見えた母が突然『くも膜下出血』で倒れました。

  ライトバンを乗り回し、和裁の仕事をこなし、スイミングスクールに通い、全国マスターズ水泳選手権に出るほど元気だった母。頭が良く、経験から来る的確なアドバイスを、子ども達にくれていた母。         

 本当に突然の出来事でした。プールで泳いでいる最中に頭が爆発して、そのまま水着のまま、救急車で病院へ。開頭手術は8時間に及び、親父と姉、私と弟は、生きた心地がしないまま待ちました。手術は成功だったのですが、その後数週間、意識がもどりません。こうなるとどこまで元の母が戻ってくるかです。

 医者に質問しますと。慎重な返事しかかえってきません。

私 『母は家族の名前と顔を覚えてますでしょうか?』
医者『うんん、それは微妙ですね。』

こんな調子です。脳卒中というのは本当に殺生な病気です。一命を取り留めたとしても、

・助かってよかった  と言えるか
・こんなんだったら助からなかったほうがよかった と思ってしまうか。。。。

  不謹慎な言い様かもしれませんが、家族の偽らざる心境です。手術が終わって、意識が戻るまで、医者にもどの程度の状態かはわからないのですから。
 
  母の場合はかろうじて、助かってよかった と言える状態でしょうか。左半身の運動機能が麻痺して歩けません。ただこれも左でよかった。利き腕の、そして何と言っても箸を持つ右手が助かったのですから。それと、、、まあ半分位でしょうか、知性を奪われてしまいました。心配された味覚障害が無かったのは幸い。ものを食べておいしいと言えることは、今後生きていくうえで大きな意味がありますもの。

  しかしながら、母の、そして介護する親父の苦闘が始まったのはそこからです。病院というところは、手術をしてしばらくしたら追い出されるのです。患者にとって一番大切な運動機能回復のリハビリというのは医療じゃないのでしょうね。母もいくつか病院を転々としました。老人保健施設にも短期入所しました。でも結局、家族の目から見て、あまりに母が可愛そうでした。まだ70歳、施設に入ったりすると、まだまだ若いのですよ。母もそれを敏感に感じ取ってるようで、家に帰りたいと泣き叫ぶ毎日でした。親父も私も、姥捨て山(表現が悪いですが、私にはそう見えました)みたいな施設に母を入れておくことは、全てをあきらめて、まだ若い母がそこで死を待つ。そんな風にさえ思えました。

  親父は全ての事をやめて、母の介護一本で頑張ろうとします。この親父の姿勢が、3人いる子どもを寄せ付けないような雰囲気をかもし出したのも事実です。私も親父がそれでいいなら、いけるとこまで行けばいいと思ってましたし。ただし、その頃は、親父も元気だったのですね。そして、京都の市営団地の、エレベーターの無い3階の部屋で、老々介護生活が行われました。3年以上に及びました。まあ息子の私から見て、悲惨でしたね。

・現状を悲観して泣き叫ぶ母
・ひどい夜間せん妄で夜寝ずに叫ぶ母
・それに腹を立てて怒る親父
・一日十数回に及ぶトイレ(毎回、母を抱き起こして、オマルに移動です)
・全くしたこと無いのに料理等の家事をする父
・暑い夏でも週一回の入浴(介護保険の訪問入浴サービスは週一回)
・回復どころか、寒い冬に耐えかねて硬直していく母の体
・(子どもからみて、、)介護殺人や心中さえ起きかねない状況

 子どもが親の面倒みろ!
とよく言われましたが、言うのは簡単ですよ。子どもたちだって、皆生きていくのに働かなければならない。私はそのとき小さいながら商売をしていましたので、比較的時間の都合をつけられましたが、勤め人の弟などは、どうしようもありませんよ。

 ふんだんに金をもっていたら解決する!
ある意味では事実でしょう。終身型の有料老人ホームがありますからね。だけど入居するには、都会にマンション一つ買うくらいの金が必要です。わがファミリーにそんな金は無いです。まして父母の年金は、二人が生活するのが精一杯くらいのものです。

 長引く介護生活で、親父が心身ともに弱ってきて、もうこれが限界というときに、私が提案したのが、フィリピンへ渡り、私と私の妻(当時はなる予定)のカレンと共に暮らさないかということでした。それまで私は、30回程フィリピン渡航を繰り返し、遊びまくってました。当時は羽振りがよかったものですから(汗)。遊びまくるのに飽きた頃、と言ってはダメですね、今の妻カレンと出会ってからはピタッと遊びを止めました。そして、私の将来の夢として、フィリピンで暮らしたいという思いが明確になって来ていました。そして、私の夢と、両親の苦境を、同時に解決する方法として、本気でフィリピン移住を考え始めたのです。

カレンは 『おかあさんと一緒に来なさい。フィリピンだったら私が何とかする。』
と言ってくれました。
まあこの時ですね、私が一生この子と、一緒にいようと決めたのは。

3泊4日のフィリピン視察旅行を終えた父が、『よし!フィリピンへ行こう。このままでは、何ともならない』 と決断するまでに、そう時間がかかりませんでした。

写真は、母を苦しめ、家に閉じ込めた、団地の魔の階段です。何度、この階段を、母を抱えて上ったことか。 市に一階への変更をずっと申し込みましたが、優先されることもなく、(というか同じような境遇の人が一杯いるみたいです) 抽選に落ち続けたらしいです。

もう一枚は懸命に歩こうとする母。
これが日本での最後のリハビリになりました。




1 件のコメント:

  1. はじめまして、テルといいます。
    今日は2022.5.3GW真っただ中、何となくwebで海外移住系のものを眺めていたらこちらに到着しました。
    面白そうでしたので最初から読ませていただきたく過去の記事から拝見していました。
    この記事で4件目でしょうか、お母様の日本最後のリハビリ写真を拝見したところです。
    GW中、続きを少しづつ読ませていただきたいと思います。
    有難うございます。おかげさまでGW中の楽しみが出来ました。

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