2010年9月24日金曜日

そもそも何故フィリピンにやって来たか(フィリピーナ妻の存在)

  介護の必要な母と、親父とともに、フィリピンで暮らせるのは、そりゃもう、妻カレンのおかげです。 如何なる人が、フィリピンだけでなく外国に移り住もうとするなら、絶対の信頼のおける受け入れ者が必要です。 私もフィリピン渡航歴は、ベテランの部類に入ると思いますが、それは、あくまで旅行者としてで、今回の移住も、私一人では、とても段取りできませんでした。

  フィリピン行きを決めるときに、現地にある様々な施設、と言うか、外国人用の永住ヴィレッジ等も実際見て、検討しました。 で、結論として、自分で生活を立ち上げたほうがいい、そのほうが、好きなように出来るし、資金的にも効率がいいと判断しました。

  とは言っても、フィリピンで住宅を探すことの大変さは、、本当に大変です。 今回は一戸建て賃貸住宅を探したのですが、いわゆる、町の不動産屋さん、というものが無い。 私、大阪市内で、何回かマンションを変えましたが、アパマンショップに行って、条件を言って、ずらっと出てきた資料の中から、2-3件選んで、見に行って、気に入ったものに決める。 そんな感じで、トータル時間は、2-3時間以上かけたことありません。 ここは、色々網羅するデータベースが無く、行き当たりばったり、ウロウロして、『house 4 rent』 なんて書いてある物件を、足と目で見つけるやり方が、一般的です。

  で、日本から条件を言って、妻に探してもらったのですが、あんまり可哀想なので、私が必死でインターネットをあたり、乏しい物件情報の中から、候補を伝え、見て回ってもらいました。 そして、決まったのが、今のバハイです。

  私たちの場合、決定的な条件が、マスターベッドルームが1階にあることです。 車椅子の母は、2階に上がるのは、ほぼ不可能ですから。 この条件が、なかなか、きつかった。 敷地面積の小さい家は、大概ベッドルームは2階です。 条件に合わそうとすると、やたら大きな家になってしまいます。今の家は、バンガロー、平屋です。 決して、豪華な家じゃないけど、オープンば雰囲気が気に入って決めました。

  というのも、フィリピンの家は、セキュリティ優先で、外から見たら、牢屋みたいな家が少なくありません。 田舎のヴィレッジでは、そうでもないのですが、メトロマニラでは、その傾向が強いですね。 決まった場所は、パラニャケ市。 BFホームズの隣のこじんまりした、サブディビジョンです。BFの中の家も、最後まで候補に残ったのですが、残念ながら、台風オンドイの洪水で浸水した後があり、かつ、BFは水道の勢いが、すごく弱かったです。 だから、断念しました。

  住宅探しについては、また別の機会に、詳しくはなします。

  住宅が決まっても、住めるようにするまでの過程は、私では出来なかった、というより、我慢出来なかったでしょう(笑)。

  我が家で働くスタッフも、妻があちこちに声をかけ、探してくれました。 ケアギバー・メイド・ドライバーの3人です。 やっぱり、一番大変だったのは、ケアギバー。 下の世話などもありますし、母との相性もありますし、男の腕力がいるのですが、女性のほうがいいし。。。二転三転、今のケアギバーにたどり着きました。 スタッフの紹介も、また今度、詳しく話します。 ライセンス持ちの、介護士をエージェントから紹介を受けるなんてことは、全く必要ありません。 日本語? 全然、話せない人でも何とかなります! 実際、何とかなってます! このあたりも、いづれ詳しく。

  結論。信頼できる現地受入れが無ければ、絶対に無理です。そういう意味では、嫁さん選びも大切ですね(笑)。 なーんにも知らない、社会経験の無い、ねーちゃんではダメデス(笑)



2010年9月21日火曜日

そもそも何故フィリピンにやって来たのか(家族の限界②)

  前の記事で、大変えらそうなことを書きましたが、私の家族は、少子高齢化の典型例のようになってしまってます。両親は、それぞれ、昭和13年、12年生まれですが、子どもが3人いて、孫がいませんでした。私の長女が今年の4月に、フィリピンで生まれるまでは。

  私の兄弟3人は、全て40代。 一人は未だ独身、一人は配偶者はいますが子ども無し、私は過去×1で、つい最近、今のフィリピン人嫁と結婚、長女が誕生しました。  母の年齢で子どもが3人いれば、二十歳そこそこの孫が、5人、6人、7人、8人といても、全くおかしくありません。というより、いるほうが普通なのではないでしょうか。

『核家族化』という表現がありますが、むしろ、『家族の一人化』です。私も含めて兄弟それぞれに、人生観も事情もあるのですが、、、。

ここで、昔の日本の。当たり前の、家族の風景を思い浮かべてみます。おじいちゃん、おばあちゃんに、長男の私、私の妻、私の子ども数人(といっても大人の年齢です)、更に子どもの配偶者、もしかすると曾孫も何人か。そして、未だ独身の弟。  例えばの話しですが、これだけ同居していれば、母が倒れたことくらいは、皆で力を合わせて、分担すれば、十分に、難なく、吸収できるのではないでしょうか。

 そこに、介護の問題は存在するでしょうか? しません。 母は家族に囲まれて、幸せな老後が送れるのではないでしょうか。家族が立派に機能していれば、孤独死する老人がいるでしょうか?施設がそんなに必要でしょうか? 必要ありません。そんな家族の風景が、日本、特に都会では、消えて無くなってしまった。

  家族の機能は、それだけではありません。おじいちゃん、おばあちゃんがいれば、孫や曾孫の面倒をみるくらいのことは朝飯前です。 嫁が働きに出たければ、いくらでも出来ます。そこに、保育所が必要でしょうか? 待機児童があふれかえるような事態があるでしょうか?
  おじいちゃん、おばあちゃんがいれば、子どもの教育、しつけにも。大きなプラスになるはずです。おじいちゃん、おばあちゃんと身近に接して、敬う心を持ってたら、電車でお年寄りを前に立たせて、ふんぞりかえる高校生が出現するでしょうか?

  私の兄弟は、全て独立して、別居、子ども無し。 この状態が、両親を、老々介護の地獄へと追いやってしまったのです。 長男の私が同居し、嫁がいて、立派な孫が数人いて、という昔なら、当たり前の家族があれば、ゆうゆう、母を守れるはずです。 でも、それが無かった。

  私自身、高度経済成長の只中に生まれ、日本の精神崩壊の過程の時代に、育ちました。『高度経済成長時代』というのは、『高度精神後退時代』ですから。 受けた教育も、祖国を悪い国だと徹底的にたたきこまれました。 昔あった、修身のような、道徳的な教育、導きも受けた覚えはありません。個人の自由や権利ばかりを、尊重するよう教育され、自分のことばかり考える人間になっていたのは、否定する気はありません。

  子どもを持つなんてことは、自分の人生に重荷になる、なんて、とんでもない考え違いをしていたこともあります。いや、つい最近までそうだったかもしれません。
 
  フィリピンに接し、フィリピンの国民を知り、フィリピンが好きになるまでは。

  ここフィリピンは、日本に比べ、様々な面で遅れています。特に社会インフラの面は、全くどうにかならないかと思いますし、汚職に代表される、金にたいするモラルの低さは目をおおうばかりです。日本に比べて、確実に何十年分はおくれています。

 そのかわり、日本に何十年前にあった、家族というシステムが、日本の過去以上に、強固な形で存在し、ファミリーが社会の基礎をなし、それが、フィリピン社会の一番の特色であります。ものすごい数の家族は当たり前、少子高齢化なんてかけらも無い、子どもはどんどん生まれます。同じ屋根の下に住まないまでも、生まれた街を大事にし、そこに寄り集まって、困ったときには助け合い、おじいちゃん、おばあちゃんを大切にし、外国に働きに出て自分を犠牲にし家族を支える子たちがあり、、、。確かに排他的な一面はありますが、そこに、今、日本で起こっている問題はありません。全て家族という、社会の最も基本的なシステムが機能しているからです。

 私は、フィリピンに接した時、

『なんで皆、あんなに幸せそうなんだろう。とても貧しいのに。』
『あんな一杯子どもつくってアホだなあ、金もないし、将来設計も無いのに。』

なんて考えてました。
今では、全く私の考えは、間違っていたと思います。

家族があるから、皆一緒だから、何は無くとも、笑顔がいつもあるのです。
金が無いから、将来が見えないから、子どもをつくり、家族を存続させるのです。

根本的に私の価値観を、転換させられました。フィリピン的な幸せの前では、私の追い求めていた日本的な、物質的な幸せは、色あせてしまいました。

自分の将来、老後を支えるのは、年金じゃなく、子どもだと、思うようになりました。

年配者を敬い、異形のものにとても寛容なフィリピン。それが、実感としてわかり、私の妻が、
『おかあさんと一緒にフィリピンに来なさい。ここなら、何とかなる。』と言ってくれた時、フィリピンへ母を連れていけると、確信したのです。

やさしいケアギバーと、メイドさんと、私の妻と、私と、親父に囲まれて、母が暮らしていく風景は、はじめから私の頭に描くことが出来ました。そして、細かな点はともかく、その通りになりました。

そして、私自身、ここで家庭を持って、生きて行きたいとの思いは止まりませんでした。

なんか知らないけど、、、暖かいのですよ。 気候だけじゃなく、人が。



写真は、プールサイドで、家のスタッフに囲まれる母。

そもそも何故フィリピンにやって来たのか(家族の限界①)

 

  今回の話しは、少し日本人として、日本の現状を憂える私の考えが強くでるかもしれません。日本の抱える問題を、集約したような我が家族の恥をさらすことになるかもしれません。

  今、日本は、少子高齢化・孤立する老人・子ども虐待・親殺し・子殺し・自殺。 毎日、こんなニュースばっかりじゃないですか? 100歳以上の高齢者の行方不明問題も、国辱ものの話しです。老人の孤独死なんてめずらしくもありません。 虐待は日常茶飯事です。 『たまには、こんなニュースもある』 というレベルは、遥かに超えてます。 こんな事ばっかりです!

  昔の日本は、こんなじゃなかったはずです。戦後65年が経ち、アメリカの占領政策により、腰抜けにされた日本人の、精神崩壊が、今ここに、極まったかようです。という意味では、日本を2度と立ち上がれないようにするという、アメリカの占領政策の目標は、ここに成就されたのかもしれません。

  池田内閣のときに、その他の大切なものを全て捨てて、経済一本に絞った国策の大きなツケが、いま限界点に達っして、吹き出ている、そんな気もします。

  もう少し、日本の現状を憂える話しをしましょう。

  巨木の根っこと幹から、腐っていっている現状を、日本の国民は理解できているのでしょうか。時代の流れで、済まされる話しではありません。要は、日本人の、精神が崩壊しているのです。

 ・電車の中で、お年寄りに席を譲らない高校生。
 ・父親を毛嫌いし、粗大ゴミ扱いする、子どもとその家庭。
 ・大学を出ても、就職しようともせず、フラフラする若い世代。
 ・フリーターなどという、訳のわからない身分
 ・陰湿極まりないいじめ、若い人の自殺
   (日本の年間の自殺者数、、ちょっとした戦争並みの数ですよ)
 ・身寄りの無い、年配ホームレスの溢れる街
 ・儲ければいい、商売モラルも何もあったものじゃない、アメリカ式金融屋

  政治が腐ってます。 この国の崩壊状況に、なんらの手も打てません。 国民のためだ、国民の目線で、国民の生活が第一、などと言って、やっている事は、対症療法ばかり。対症療法ばかり!子どもが少ないから、『子ども手当て』、、、虐待が多いから、『児童相談所』、、フリーターが多いから、『製造業の非正規雇用禁止』、、身寄りの無い老人が多いから、『生活保護予算』、、全くアホじゃなかろうか。 政策が間違っているとは、言いません。 短絡的かつ、近視眼過ぎるのです。 小学生が考えたような政策ばかりです! 特に民主党さんは、この傾向が強いですな!

 違うでしょう!
65年かけて失ってしまったものを、50年かけて、取り戻すような覚悟ある国の運営。根っこから腐っている精神の建て直し。 世界に誇れる、日本人にモラルの再構築。 そんなヴィジョンをもった、リーダーシップが求められているのではないでしょうか。 小沢一郎のバカみたいに、選挙に勝つこと、すなわち、国民にうけることばかりを、考えていたら、今の政府のような政策になるのです。

  今の日本に起こっている様々な問題の、根本的な原因は、『家族』という最も根源的な、最も人間社会の基礎となる『家族』、というシステムの崩壊に他なりません。 そして、家族を崩壊させているのは、『教育』の崩壊です。

  私、変な事言ってます? 誰が考えてもわかる話しじゃないです?
教育という言葉の意味は、何も学校教育だけじゃありません。 家庭でも行われるべき『しつけ』、というものも大きな部分を占めます。

 ・お年寄りを敬う。
 ・両親を尊敬し敬う。
 ・家族を大切にし、助け合う。
 ・弱いものいじめをしない。
 ・社会に貢献する、人様のお役に立つという人生観。
 ・国を愛し、地域を愛し、家族を愛す、という基本的な祖国愛。

  どうでしょう?これだけの、超当たり前の心を持つだけで、冒頭に並べた問題の全てが、解決しませんか? 昔の、(昔というのは、明治から大正、昭和初期まで、日本が誤った道に進むまでです) 日本人はこんなものは、当たり前に身に着けていたのではないでしょうか。

 私は、『おとうさん、おかあさん、お先に行って参ります。天皇陛下、万歳!』 
と言って突撃する若者を育てようと言っているのではないですよ! 今の世の中、この手の話しをすると、すぐ、右よりだ何だと、危険思想扱いされます。 それが間違ってる! 敗戦のショックとアメリカの誘導によって、軍国主義だけをしっかり捨て去ればいいものを、軍国主義に対する反省、恐れが強いあまり、最も大切且つ基本的な、国民の素晴らしい精神構造をも、捨て去る道を歩んでしまったのではないでしょうか。

 ここ数年、くるくる変わった総理大臣と内閣。
唯一正しかったのは、安部晋三総理大臣。『美しい国』をスローガンに、『教育改革』を第一に掲げ、教育基本法から改正した。残念ながら、国民、すなわち大衆うけしないんですよね。 いいですか、大衆というのは常に、近視眼的且つ、おろかです。 ヒットラーを熱烈に支持したのは、ドイツ大衆なのですから。 政治家が、『国民の声を聞いて、、』などと言うと、ぞっとします。 聞かんでいい!!!!!!
 

 話しがドンドン飛躍して、止まらなくなりました。
次回は、話しをもとに戻します。 最終的に言いたいのは、家族というシステムがしっかり機能していれば、介護の問題など存在しないということなのです。

写真は、美しい我が故郷、
京都です。



              (続く)

2010年9月19日日曜日

そもそも何故フィリピンにやって来たのか(介護生活の限界)

  もう5年前になります。70歳を目前に快活で健康そのものに見えた母が突然『くも膜下出血』で倒れました。

  ライトバンを乗り回し、和裁の仕事をこなし、スイミングスクールに通い、全国マスターズ水泳選手権に出るほど元気だった母。頭が良く、経験から来る的確なアドバイスを、子ども達にくれていた母。         

 本当に突然の出来事でした。プールで泳いでいる最中に頭が爆発して、そのまま水着のまま、救急車で病院へ。開頭手術は8時間に及び、親父と姉、私と弟は、生きた心地がしないまま待ちました。手術は成功だったのですが、その後数週間、意識がもどりません。こうなるとどこまで元の母が戻ってくるかです。

 医者に質問しますと。慎重な返事しかかえってきません。

私 『母は家族の名前と顔を覚えてますでしょうか?』
医者『うんん、それは微妙ですね。』

こんな調子です。脳卒中というのは本当に殺生な病気です。一命を取り留めたとしても、

・助かってよかった  と言えるか
・こんなんだったら助からなかったほうがよかった と思ってしまうか。。。。

  不謹慎な言い様かもしれませんが、家族の偽らざる心境です。手術が終わって、意識が戻るまで、医者にもどの程度の状態かはわからないのですから。
 
  母の場合はかろうじて、助かってよかった と言える状態でしょうか。左半身の運動機能が麻痺して歩けません。ただこれも左でよかった。利き腕の、そして何と言っても箸を持つ右手が助かったのですから。それと、、、まあ半分位でしょうか、知性を奪われてしまいました。心配された味覚障害が無かったのは幸い。ものを食べておいしいと言えることは、今後生きていくうえで大きな意味がありますもの。

  しかしながら、母の、そして介護する親父の苦闘が始まったのはそこからです。病院というところは、手術をしてしばらくしたら追い出されるのです。患者にとって一番大切な運動機能回復のリハビリというのは医療じゃないのでしょうね。母もいくつか病院を転々としました。老人保健施設にも短期入所しました。でも結局、家族の目から見て、あまりに母が可愛そうでした。まだ70歳、施設に入ったりすると、まだまだ若いのですよ。母もそれを敏感に感じ取ってるようで、家に帰りたいと泣き叫ぶ毎日でした。親父も私も、姥捨て山(表現が悪いですが、私にはそう見えました)みたいな施設に母を入れておくことは、全てをあきらめて、まだ若い母がそこで死を待つ。そんな風にさえ思えました。

  親父は全ての事をやめて、母の介護一本で頑張ろうとします。この親父の姿勢が、3人いる子どもを寄せ付けないような雰囲気をかもし出したのも事実です。私も親父がそれでいいなら、いけるとこまで行けばいいと思ってましたし。ただし、その頃は、親父も元気だったのですね。そして、京都の市営団地の、エレベーターの無い3階の部屋で、老々介護生活が行われました。3年以上に及びました。まあ息子の私から見て、悲惨でしたね。

・現状を悲観して泣き叫ぶ母
・ひどい夜間せん妄で夜寝ずに叫ぶ母
・それに腹を立てて怒る親父
・一日十数回に及ぶトイレ(毎回、母を抱き起こして、オマルに移動です)
・全くしたこと無いのに料理等の家事をする父
・暑い夏でも週一回の入浴(介護保険の訪問入浴サービスは週一回)
・回復どころか、寒い冬に耐えかねて硬直していく母の体
・(子どもからみて、、)介護殺人や心中さえ起きかねない状況

 子どもが親の面倒みろ!
とよく言われましたが、言うのは簡単ですよ。子どもたちだって、皆生きていくのに働かなければならない。私はそのとき小さいながら商売をしていましたので、比較的時間の都合をつけられましたが、勤め人の弟などは、どうしようもありませんよ。

 ふんだんに金をもっていたら解決する!
ある意味では事実でしょう。終身型の有料老人ホームがありますからね。だけど入居するには、都会にマンション一つ買うくらいの金が必要です。わがファミリーにそんな金は無いです。まして父母の年金は、二人が生活するのが精一杯くらいのものです。

 長引く介護生活で、親父が心身ともに弱ってきて、もうこれが限界というときに、私が提案したのが、フィリピンへ渡り、私と私の妻(当時はなる予定)のカレンと共に暮らさないかということでした。それまで私は、30回程フィリピン渡航を繰り返し、遊びまくってました。当時は羽振りがよかったものですから(汗)。遊びまくるのに飽きた頃、と言ってはダメですね、今の妻カレンと出会ってからはピタッと遊びを止めました。そして、私の将来の夢として、フィリピンで暮らしたいという思いが明確になって来ていました。そして、私の夢と、両親の苦境を、同時に解決する方法として、本気でフィリピン移住を考え始めたのです。

カレンは 『おかあさんと一緒に来なさい。フィリピンだったら私が何とかする。』
と言ってくれました。
まあこの時ですね、私が一生この子と、一緒にいようと決めたのは。

3泊4日のフィリピン視察旅行を終えた父が、『よし!フィリピンへ行こう。このままでは、何ともならない』 と決断するまでに、そう時間がかかりませんでした。

写真は、母を苦しめ、家に閉じ込めた、団地の魔の階段です。何度、この階段を、母を抱えて上ったことか。 市に一階への変更をずっと申し込みましたが、優先されることもなく、(というか同じような境遇の人が一杯いるみたいです) 抽選に落ち続けたらしいです。

もう一枚は懸命に歩こうとする母。
これが日本での最後のリハビリになりました。




2009年12月26日クリスマスに祈祷師がやってきた

  ここフィリピンには、怪しげ?な民間療法士みたいな人がたくさんいます。お産とか、ちょっとした診察とか、マッサージ(これが一番おおいかな)とか、、適切な料金というかチップを取ってサービスするわけです。

  我が家のドライバーの名前はバロック。年はそうですね30過ぎくらいかな。こいつが、とんだ奴で今はもう我が家にはいないのですが、ジープを1台保有し、路線営業したりプライベートレンタルしたりで食いつないできたみたいです。ゴリラのような風貌で、1日6回飯を食います(笑)我が家にいるときも6回飯食らってたみたいです。米の消費が異常に早いわけです。

  で、そいつが紹介で自分の家の隣にすむという、おばあちゃんマッサージ師を連れてきました。私一度だけ、そのマッサージおばあちゃんを迎えに、バロックの家に行ったのですが、、、川沿いのすごい所のすごい家でした。フィリピンではめずらしくもないですし、決して住んでるところで偏見を持ったりしませんが、ジープ保有しててもこの程度であることはわかりました。
  さて、やって来たおばあちゃん、もっともらしくマッサージをしてくれました。とてもソフトタッチでやさしいので母はぐっすり眠ってました。
  
  マッサージが終わって起きた母は一言、『あの祈祷師のおばちゃん、もう帰ったの?』。私と父は大いにずっこけました。風貌だけで、何かの祈祷をしてくれたと思い込んだみたいです(大笑)まあ、ありもしないことを思い込んで、全く現実の事として思い込んでしまうのは、痴呆(この言葉は大嫌いで使いたくありませんが)の典型的な症状ですが。

  さてその祈祷師さん、何回か来て貰いましたが、何事も起こらないのでやめました。母の半身麻痺には祈祷も効果がなかったみたいです。母の体になにやらオイルらしきものを塗っていたので、何かいい秘薬みたいなものだろうかと思ってたのですが、何のことは無いマーキュリードラッグでもどこでも売っているクールオイルでした。

  皆さんフィリピンの民間療法には気をつけましょう。大概、その人を推薦するフィリピン人のファミリー親戚か近所に住む人です。自信満々にすすめてきますから(笑)。
 
 『その病気のこと、私のおばさん、よくしってる』

てな調子で推薦が来ますから(笑)

 でも母はまた着てほしいみたいです。何しろ気持ちよく眠れるらしいです。睡眠誘導の祈祷だったのかな?だとすれば効果絶大でした(笑)

2010年9月18日土曜日

2009年12月26日皆と一緒におかん外食へ。

  今日は私の姉がフィリピン滞在最終日ということもあり、皆で外食へ出かけた。

  BFホームズの近くのロビンソンがある複合商業施設の『グロリアマリス』という中華料理屋。両親、姉、私、妻、ドライバーとその嫁さんと子ども、メイドとそのおじさんと子ども。結局、丸い大きなテーブルをぐるっと囲む程の人数に。おいしかったし、楽しかった。
  
まずよかったのはレストランの対応。車椅子の母が一行に助けられて店の前までいくと、手の空いているボーイさんが皆飛んできてくれて、ドアを前回、障害になる椅子などをさっさとよけて、大きなテーブルまで案内してくれました。
  
  飛行場に付いた時からの感想ですが、『お年寄り』と『体にハンデのある人』に対してフィリピン人はとても優しいです。ある程度は予想していたから安心してフィリピンへ来ることが出来たのですが、家のスタッフも含めて、母に対しての献身的な接し方には、本当に感謝の気持ちがあふれ出てきます。私の目にうれしさの涙が浮かぶこともあります。
  
  はっきり言って!日本にいるときは、こんな感情持ったこと無い!どちらかというと、不遇な母に対する世の中の冷たさを嘆いていたことのほうが多いです。
  
  この年配の方に対する尊敬、ハンデのある人へのいたわり、この点については、日本負けてるぞ!フィリピンの人はほんとやさしいです。昔の日本はこんなんじゃなかった。。おっと、日本論になると話が止まらなくなるので、それはまたの機会に。
  
  結局、ちょっとした大判振る舞いになったのですが。。まあ今回は到着記念ということでいいのですが、、はっきり言ってフィリピンでの外食はそんなに安くはないです。

私がゴソゴソ行くようなローカルの屋台やトロトロや汚ーい食堂は別ですよ(笑)。
 
  家のスタッフまで誘って、そこそこのレストランで外食していたのでは、両親の年金を中核として運営されている我が家の家計はもたないということに気付いたのは、かなり後になってからです(汗)。
  
  その反面!スーパーや市場で野菜や肉類を買って家で調理している分には、日本の3分の1くらいですみます。一説には5分の1とか言われてますが、ここはパラニャケ市バランガイBFホームズ。物価はほかと比べると確実に高いようです。
  まあとにかく、やさしい人たちと、親父、姉、私に囲まれて楽しそうな母でした。

  子どもが写っていますが、家のメイドに来ているセシールという娘の子どもで『パオパオ』といいます。これがまためちゃくちゃ可愛い。我が家を明るくしてくれる貢献度大です。
 
  それにしても、フィリピンの女性は何でこんなに写真写りがいいのだろう。

2010年9月14日火曜日

2009年12月22日いきなりフィリピン爆発。風呂の湯が出ない。

  つまらないことじゃないのです。

  母のような体の不自由な人にとって、入浴というのは大変大きな問題なのです。
いいかえると、ゆっくり風呂に入れるのはとても幸せなのです。

  日本にいる時は、団地住まいでしたから風呂は小さい小さい、段差も一杯でとてもじゃないがはいれません。結局、週一回の介護保険の入浴サービスだけでした。週一回です。あの暑い日本の夏でも週一回です。

  そこで、私は最大の親孝行として賃貸した住宅のテラススペースを利用してバスタブを備え付けたのです。といっても、あらかじめ嫁さんにお願いして手配してもらったのですが。

  で、嫁さんは完璧にOKというものですから、出発前に散々、『フィリピンに行ったら毎日風呂に入れるよー、暑いシャワーもあるよー』と宣伝してきたわけです。

  ところが、これは私が悪いのですが、日本人がいかに暑いお湯につかるか、どれだけふんだんに湯を使うかということを、嫁さんが実感として理解してなかったのですね。ぬるーいお湯が、ちょろちょろとしかでません。とても使い物になる給湯器ではありません。

  聞くところによると、嫁さんがホームセンターもどきに行ってバスタブに湯を張る給湯器を探していると言ったところ、
  
  店員が『これで十分!今ならディスカウントあります!』といって、買ってきたしろものらしいです。
  
  後で調べたところ、給湯器は用途によって能力に違いがあり、バスタブに湯をはり、強い水勢でシャワーを使おうと思うとそれなりのものがいるのです。事前にさんざん風呂を宣伝していた私としては、残念やら、憤慨するやで、いきなりイライラしてしまいました。

   結局、台所で大きな鍋に湯をわかして、バスタブの水に加えて風呂に入るということになりました。

 日本人はここまでして風呂に入りたいのか。。

的な目で見られながら。。

  それでもおかんは無事に風呂に入りました。

まあ、フィリピン経験の永い私からすると、さもありなん、という出来事なのですが、いきなり、エー加減なフィリピン爆発でした。

  でも、必死で期待に応えようと頑張ってくれるフィリピン人のスタッフには感謝です。とりあへずよかったな、おかん。

2009年12月20日おかんマニラ到着!

  いよいよマニラにやってきました。

  はっきり言って全てに関して見切り発車ですが、日本ではにっちもさっちもいかなくなって、フィリピンで丁寧な介護のもとで、快適に過ごしてもらおうという一心でやってまいりました。

  飛行機の中は5時間程でしたが、やってしまいました大騒ぎ。

  一番恐れていた『おしっこ』。

  フィリピン航空の配慮でエコノミーに最前列に座っていて、トイレは前方のビジネスクラス側にあるのを使ってもいいと言われてました。

  おかんを前から抱きかかえ。私は後ろ歩きでビジネスクラスのカーテンを開けたら、

  なんと、皆様食事中。。

  それで。。トイレが小さい。

  そんなことはわかっていたのですが、何しろ見切り発車ですから。
巷にある身障者用トイレでさえ、大柄の私がこれまた大柄のおかんと一緒に入ると狭いのに、飛行機のトイレに二人で入れるわけも無く、私はトイレの外からドアを開け放したまま。おかんのパンツをズルリ。。もちろん用を足すときもドアはあけたまま。。

  お食事中の皆様本当にすいませんでした。皆様の暖かい無視に本当に感謝します。

  NAIAは人が一杯!まさにごったがえし状態。
 我妻カレンと家の運転手が迎えに来てくれていて、車に収まったときは本当にヤレヤレ。
 飛行機の到着から車にのるまで、何回『エクスキューズ!』といったことか。
 パラーニャケの家まで約30分。

 おかんは何故か、我妻カレンを見たとたん泣き出しました。

 新たな出会いがうれしかったとか。。。こうして、私と姉と両親が新天地を求めてフィリピンはメトロマニラ、パラーニャケ市にやってまいりました。